<はじめに>
久留米城跡と篠山神社は、久留米市篠山町にあります。JR久留米駅から1km程離れていますが、歩道が整備されていますので、徒歩で行くことができます。
もともと久留米城は、久留米藩・有馬氏の居城として知られていますが、源流を辿ればもっと長い歴史があります。その歴史について紹介します。
江戸時代が終わって久留米城が廃城となり、完全に消失してしまうところを、かろうじて城跡だけは残した恩人達にも思いを馳せます。
篠山神社は、久留米城の本丸跡に地元有志により建立された神社です。名君とも言われた久留米藩祖・豊氏(とようじ)を祀っています。城跡の上に立つこの神社は、その歴史を後世に語り継いでいます。
久留米城の始まり
久留米城は、室町時代後期に土豪が篠原城(ささはらじょう)を築いたのが始まりと言われています。城と言っても砦程度のものだったらしいです。
1573年に高良山座主・良寛の弟の麟圭が入城し、高良山勢力の城となっていましたが、1587年に豊臣秀吉が九州を平定すると、その秀吉に筑後久留米を封じられた小早川秀包(こばやかわひでかね)が入城してきます。
小早川秀包は毛利元就の九男坊ではありますが、実兄である小早川隆景の養子となり、小早川姓を名乗りました。そして、キリシタン大名・大友宗麟の娘と結婚したことで、自らもキリシタンとなり、城下町に教会を立てています。
その秀包も、1600年関ケ原の戦いでは西軍についたために、戦後改易となってしまいました。
関ケ原の戦いの後に、筑後国に封じられたのが、田中吉政です。田中吉政は柳川城を本城、久留米城を支城とし、次男の吉信(別名:則政)が久留米城の城主となりました。
ところが、大坂の陣の後の1615年に、江戸幕府が一国一城令を発令したために、久留米城は廃城の憂き目にあっています。
そして、田中氏の時代も長くは続きませんでした。吉政の子・(2代目)忠政は跡継ぎに恵まれず、没後に改易となっています。
その後に久留米城に入ったのが有馬豊氏(ありまとようじ)です。関ケ原の戦いで徳川家康側につき、戦功を挙げたことで、筑後国北半を封じられました。(ちなみに、筑後国南半は立花氏が返り咲いています)
久留米城大改修
小早川秀包、田中吉政は共に積極的に、久留米城の改築、整備を行ったようですが、幕府の命令で一旦廃城となったために、その後ひどい状態になっていたようです。
1621年に入城した有馬豊氏は早速、久留米城の大規模修築に取り掛かりました。しかしながら、城下町の整備を含めて工事が完了したのは、4代目頼元の時代です。かなりの年数を要しています。
これだけ時間を要したのは、豊氏が幕府から目を付けられないように、また家臣や百姓などからの信頼を失わないように、慎重に工事を進めた結果だと言われています。
こうして、久留米城は江戸時代が終わるまで、有馬氏の居城となりました。
久留米城廃城
明治時代になってから、久留米藩難事件(明治政府への反乱未遂事件)が起きた為に、1871年(明治4年)久留米城は廃城となってしまい建物は破却されます。
建物破却後に、払い下げを受けた日田の豪商が石垣を運び出す計画を立てますが、その石垣を解体する前に実業家・緒方安平氏(石橋正二郎氏の祖父)が買い戻し、かろうじて城跡だけは留めることができたと言われています。
そして、この城跡が再び実益に利用されることが無いようにとの、地元有志達の願いが、神聖なる神社建立へと繋がったのです。
篠山神社
1877年(明治10年)に、初代・豊氏(とようじ)、十代・頼永(よりとお)を御祭神として、御零社を建立。そして、1879年(明治12年)に、篠山神社が建てられました。地域の復興と安寧の願いが込められています。
創建後は、多くの神社関係者、地域の有志により、郷土史に残る重要な出来事や偉人を称える石碑がいくつも建てられています。
春は桜、秋は紅葉の名所としても知られていて、参拝客にとどまらず多くの観光客が訪れる観光スポットにもなっています。
有馬記念館
1959年(昭和34年)の久留米市制70周年を記念して、翌年に郷土資料の調査・研究を目的として、当時のブリヂストン社長・石橋正二郎氏から寄贈されたものです。
展示室では、有馬家ゆかりの歴史資料、美術工芸品(発掘調査で発見された出土品を含む)などが展示されています。
休館日は毎週火曜日(祝祭日と重なる場合は翌平日)で、入館料は210円(但し高校生以下は無料)となっています。【2022年12月1日現在】