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2022.12_中村八大

中村八大の略歴

1931年 1月20日、中国の青島(チンタオ)市で生まれる。3男2女の3男
1940年 春、東京へ単身留学。ピアノと作曲の英才教育を受ける。
1943年 夏、青島へ引き揚げる。
1945年 一家で久留米市へ引き揚げる。久留米市は両親の故郷。
1945年 1月~1949年3月迄久留米で生活する。この間、福岡県立中学・明善校に通う。

1949年 春、上京し早稲田大学高等学院に編入する。
1950年 早稲田大学に入学。
1955年 早稲田大学を卒業。
1992年 6月10日、心不全により死去。

1931年当時、父親は、青島の日本人学校の校長を務めていた。そして父親は早くから、八代の音楽の才能を見抜きピアノを習わせ、小学4年の時に単身で上京させたのである。(敬称は略します)

音楽活動

こんにちは赤ちゃん

1949年に上京してからは、積極的に音楽活動をしています。早稲田大学入学後に、渡辺晋わたなべしんから勧誘を受け、折からのジャズブームを背景に、松本英彦らと「シックス・ジョーズ」を結成しました。この頃には既に、中村は天才的なジャズ・ピアニストという評価を受けています。

1953年になると、渡辺とは袂を分かち、松本、ジョージ川口らと「ビッグ・フォア」を結成、若者から熱狂的な支持を受けました。

しかし、1950年代後半に入ると、ジャズ自体の人気が下降線をたどり始め、代わってロカビリーが主流に躍り出ました。このロカビリー人気を牽引したのが、渡辺プロダクションを設立した渡辺晋だったのです。

ジャズの市場が縮小するという悪い流れの中で、中村は薬物に手を出したり、自殺を考えたりしたと言われています。

その後、中村は己を見つめ直し、原点に立ち返り、袂を分かった渡辺に頭を下げに行きました。そして、映画音楽の仕事を貰い、そこからまた運気が上昇し始めたのです。作詞を早稲田大学の後輩・永六輔に依頼し、「六・八コンビ」はこうして誕生しました。

1959年に映画音楽として作った、「黒い花びら(水原弘)」が第1回レコード大賞を受賞。その後「六・八コンビ」はヒット曲を連発していきます。※詳細は「2022.12_夢であいましょう」の中に記載しています。

1963年秋には、中村は過労がたたって、十二指腸潰瘍で入院しました。しかし、11月に発売した「こんにちは赤ちゃん(梓みちよ)」がレコード大賞を受賞し、2度目の栄誉に輝きました。

その後は、子供のころからの夢であった交響曲に取り組むなど、音楽活動を継続していましたが、1971年初頭、糖尿病を発症してしまいます。晩年は糖尿病やうつ病に苦しみ、音楽活動の一線からは退きました。

六・八コンビ以外での名曲

明日があるさ

坂本九が歌った「明日があるさ」の作詞は青島幸男。この曲は、2001年にウルフルズとRe:Japanがカバーしてリバイバルヒットしたので、ご存知の方も多いでしょう。

日本万国博覧会のテーマソング「世界の国からこんにちは(三波春夫)」も有名です。作詞は島田陽子(詩人)。この万博は、1970年3月15日から9月13日までの183日間、大阪府吹田市で開催されました。

今でも流れているのが、日本テレビ「笑点」のオープニングテーマです。いろいろありますね。

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