このブログは、アフィリエイト広告を利用しています。そして、今リメイクを検討中で記事の更新ができておりません。申し訳ありません。

青木繁旧居

<はじめに>

青木繁は久留米出身の著名な画家で、今では国の重要文化財にも指定されている「海の幸(1967年指定)」や「わだつみのいろこの宮(1969年指定)」などの作品を残しました。

青木繁が生きた時代は、油絵などはほとんど売れない時代でしたから、画家としては本当に恵まれない人生でした。しかし現代では、天賦の才能を持った天才という評価が定着しています。

青木繁の略歴

青木繁レリーフ(久留米城跡)
青木繁レリーフ(久留米城跡)

1882年 7月13日 久留米市荘島町で生まれる
1887年 9月 久留米荘島尋常小学校に入学
1891年 3月 久留米荘島尋常小学校を卒業
1891年 4月 久留米高等小学校に入学。同級生に坂本繁二郎(同じく画家で終生の親友)
1895年 3月 久留米高等小学校を卒業
1895年 4月 久留米中学明善校に入学。同級生に丸野豊、梅野満雄
1899年 2月 久留米中学明善校を退学
1899年 7月 小山正太郎の主宰する不同舎に入門
1900年 東京美術学校(現東京芸術大学)に入学
1904年 7月4日 東京美術学校を卒業
1904年 7月中旬から千葉県南部の布良めらに行き、代表作「海の幸」を制作
1905年 8月29日 たね(恋人)との間に、長男・幸彦(福田蘭童)が誕生
1907年 8月 父危篤の知らせをうけて単身帰郷。同月21日に父死去
1908年 10月 家族と衝突し、家を出て放浪生活に入る(主に熊本地方)
1909年 4月 久留米に戻り、坂本繁二郎留守宅などに滞在
1910年 10月に喀血し、11月福岡医科大学で診察を受けた後、松浦病院に入院
1911年 3月25日 死去。享年28歳       

福田たね(恋人)とは、最後まで入籍していません。父亡き後の家や家族を支える才はなく、画家として報われることなく、失意のうちに生涯を閉じたと推察されます。
1910年11月に家族に宛てた、自らの不甲斐なさを詫びる旨の手紙が遺されており、事実上の遺書として知られています。

青木は、絵画の魅力に取りつかれ、若くして上京し研鑽に励んで、日本美術史上に残る作品を生み出しました。しかしながら、肺結核という持病を患い、明治という激動の時代にも翻弄され、28歳という若さで亡くなりました。

海の幸

青木は、1904年に東京美術学校を卒業後、森田恒友、坂本繁二郎、福田たね、と共に千葉県南部の布良めら(現在は館山市布良)に行き滞在し、代表作「海の幸」を制作しました。画中人物の中に、1人だけ鑑賞者と視線を合わせているモデルがいますが、それは「たね」だと言われています。

この時に滞在した「小谷家(こたにけ)」ですが、地元で保存活動が起き、2009年に館山市の有形文化財に指定されました。

青木繁旧居保存会

現在生まれ故郷の久留米に、青木繁が住んでいた住居が復元・保存されています。一連の経緯について、関係者の方にお話を伺いました。

話を要約しますと、①今ある場所に旧居が存在していたこと、②代替わりして他人が所有していたが、それを運よく譲り受けたこと、③古い家は老朽化が激しく、壊さざるを得なかったこと、④旧居を復元する際に元の材料を一部使用したこと、などの説明を受けました。

また、この旧居の復元・保存には、当初行政は及び腰であったために、地元有志で保存会を立ち上げ、行政に強く働きかけて実現したこともお聞きしました。そして、今は地元ボランティアが管理運営を行っているということです。入館料は無料。休館日は月曜日(休日の場合は翌日)です。

お話を聞いて、青木繁の旧居が復元・保存され、綺麗に管理されているのも地元有志の尽力があってこそ、ということが良く分かりました。
歴史的建造物というのは、地元の強い意志と協力によって残っていくんですね。先人に感謝したいと思います。

タイトルとURLをコピーしました